古道散策
 「古道」は、古来の道義、学問、文化を意味しますが、ここではこれまでの学習と先人の教えを踏まえ、日々思うところを書かせていただきました。
ご指摘、ご指導等ございましたら、天沼熊野神杜までご連絡いただければ幸いです。
天沼熊野神社 宮司 渡辺 寛

1.天沼今昔物語 第五話 第四話 第三話 第二話 第一話   

2 祈りのこころ 祈りの心-2 祈りの心-1

 天沼今昔物語(抜粋) 第一話
 ここ天沼村は、江戸時代には73戸、明治の初めは77戸の戸数で、今とは大違いの、棒や、杉が生い茂り、狐、狸が走り回っている武蔵野の原野でした。明治24年に荻窪駅ができ、それから、少しずつ人が増えてきたのです。
 大正11年に、高円寺、阿佐谷、西荻窪と駅が出来、その一年後に関東大震災が起きました。そのときの被害は、杉並町1800戸で、全壊が10戸、死者、行方不明者0、火災なしで下町と比べて被害が無い、微小の状況で、駅の新設、そして、地震に強いということで、この頃から人の移入が進みました。それまでは、近郊農業(野菜などの栽培)でしたが、耕地を宅地化して行きました。その推進役を担ったのは、行政ではなく、土地の人々でした。その中心は、この天沼では浅倉さんでした。其の訳は、浅倉さんの御先祖は今から610年前に、紀伊半島の熊野三山から、熊野様の御札を持って、舟に乗り、ここ天沼に帰農した人々なのです。そのとき、まげを切り落として僧となって寶(宝)光院(寶光院→十二杜権現→熊野神社)を建てたそうです。宝が光り輝いている様なすぱらしい力をお持ちの神様(神仏習合の時代)と.して奉斎を始めたのです。それで、お坊さんが住んでいる所と言うことで宝光坊という地名になりました。このときが、南北朝時代の後の応永二年(1395年)です。以後天沼の中心は、この宝光院となり、何か相談事があると此処に集まり、相談をしたのです。
 江戸時代になって、この天沼村の地名が出来上がりました。それまでは、阿佐谷村字宝光坊という認識だったのです。天沼は以前、雨が降ると沼地になるとの事で『雨沼』と資料にあり、また、江戸時代の初めは『天領』でしたので、雨沼と天領が現在の天沼と言う地名の由来と私は考えます。今では考えられませんが、桃園川と妙正寺川の両側は雨が降るたぴに舟を出すほどの所で一年中水が抜けないところだったそうです。
 江戸時代の初期には、天沼村には三杜の氏神様が鎮守されていて、その氏神様を中心に地域が区分されていましたが、昭和40年に誰もが町の境が分かるように(警察、消防、郵便配達等の人々)、道路区分された町へと変遷させられました。地域の繋がりが行政の境でしたが、行政による行政の為の町区分変更が行なわれました。しかし、土地の人々にとって地域の中心である氏神様は変わりませんでした。道路を境とする新住居表示の施行によって天沼村は再区分されましたが、その繋がりは切れずに、一つの町名に、二つ、三つの町会が存在する現状を作りました。

次の『地名、町名の変遷と氏神様』の表を参照してください。
『地名、町名の変遷と氏神様』
江戸時代の小名 明治22年
改定
昭和7年
改定
現在の町名(町会等)
昭和40年改定 :道路で区分け
氏神様
中谷戸 中谷戸
小谷戸
四面道
天沼
1丁目
天沼1丁目の南部の一部
天沼2丁目の一部(二丁目町会)
天沼3丁目
八幡神杜
1573年
創建
宝光坊 宝光坊
山下
天沼
2丁目
天沼1丁目の大部分
天沼2丁目の'部(二丁目みよし会 )
阿佐谷北三丁目の西側
(阿佐三会、東側は阿佐谷村)
熊野神杜
1395年
創建
本村 本村
東原
割間
天沼
3丁目
本天沼一丁目、二丁目、三丁目の各大部分
下井草一丁目の中央大部分
(東側は阿佐谷、西側は下井草村)
(本天沼東町会と本天沼西町会)
稲荷神杜
1635年
創建
 
 江戸時代は畑作だったのが、明治は、畑作、林業、養蚕業、その後、野菜栽培、昭和は宅地の造成という形で原野は耕地に、耕地は宅地に替わつて行きました。これにより、現在の杉並が活性化した地域となっていったのです。電気もガスも水道も駅も、自分達でお金を出し合って、お願いに行って作ってきたのです。杉並区では代々住んでらっしゃる人々が10%前後になって来ましたが、この人々の御先祖達と新住民の人々が氏神様を中心としてまとまり、地域を良くしよう、より良い方向に進めようという強い気持ちを持ち続けてきたからこそ今の杉並があるのです。
 杉並は、工業地区ではなく、商業地区でもなく、住宅地区です。ですから、土地の人々より、この町に10年、20年住んでいるという人々の方が多い町です。そして、次また何処かに移って行く人々の方が多い町です。この新しい人々、新住民の人々は、氏神様を中心にして早く町になじんでいただければと思います。氏神様のお祭りやお正月に積極的に参加して欲しいと思います。一時とはいえ、この杉並にお住まいの人々には、地域の、町の為にカを出してください、皆さんのカで今の天沼、本天沼、荻窪、阿佐谷を作る事が未来に繋がる事であります。来年は此処に住んでいるかどうか分からない人々でも、是の土地に愛着を持つて歩いて頂きたい。その道も、私達の先人が作ってくれた道なのです。

平成16年6月
 天沼今昔物語 第二話
 天沼の文字が始めて歴史に出てくるのは、寛永十二年(1635年)でおよそ400年前の事です。将車徳川家光が、赤坂の日枝神社にお参りした時、「ご奉納として、阿佐谷村、天沼村、堀の内村、下荻窪村の四村をさしあげた。」とあり、これが初見だと思います。それ以前の記録では、応永二十七年(1420年)の「武蔵国江戸の惣領之流」の中に「あさかやとの」(武士の江戸一族の中に阿佐谷に住んで居る一族が居る。との意味)とあり、これが近隣地名の初見と思 われます。このときには、朝倉(浅倉)氏が帰農(1395年)していますが、天沼の記述はなく、この事から推測すると、天沼の地名などを意識する必要がない状況ではなかったと考えます。その後、「堀の内、下荻窪、泉村が鎌倉円覚寺の荘園」「阿佐谷、泉村、永福寺、成宗、高井堂は小田原北条家臣の領地」等の記録がありますが、天沼は出てきません。この後、天正19年(1591年)に杉並地方で太閤検地が行われています。この頃から、「此処までは俺の畑だ。」「ウチの田だ。」という意識が出てきたのではないかと思います。それで、土地に対する意識の強まりが、地名の自覚を進め、家光公のご奉納の時(1635年)に天沼という文字が出てきたのではないでしょうか。これは私見であります。
 また、天沼には、暗渠になっていますが、桃園川という川が在ります。しかし、これは、自然の川ではなく用水路として、天保年間(1830年代)に阿佐谷村名主相沢喜兵衡が造った物です。青梅街道の関町一丁目信号の交差点を南に入った所に、千川上水から取水している桃園川の始まりがあります。青梅街道に沿って四面道を過ぎ、りそな銀行とJTBの間のカラー舗装している脇道に入り、その道に沿って、日大幼稚園の脇、慈恩寺の脇、中杉通を越え、河北病院の東側を通り、欅プールで中央線を越え桃園川緑道に繋がり、馬橋、高円寺、大久保通りに沿って山手通を越え、末広橋で神田川に合流します。
 この用水を、灌概に利用したり、米を搗く為の杵を動かす水車の動力源として使っていました。天明八年(1838年)の調べで近隣の水田、面積は、上井草村十町歩、下井草村二十八町歩、天沼村三町歩、阿佐谷十二町歩、下荻窪村二町歩とあり、やはり天沼村は裕福ではなかったようです。
 以上、新修杉並区史を参考にさせていただきました。ご指摘、ご指導 ございましたら、天沼熊野神杜まで ご連絡いただければ幸いです。

平成17年6月

 天沼今昔物語 第三話

 天沼が開けたのは、やはり、甲武鉄道(現在の中央線)に荻窪駅が創られたからだと思います。ではなぜ荻窪駅が創られたのかと言うと、当初は荻窪を通らずに、江戸時代の宿場町であった、高井戸、田無を通る計画でした。しかし、当時の汽車が出す火花がワラの屋根に飛び火事になる、汽車の振動で鶏が卵を産まなくなる。と反対運動が起こり、中野から立川まで真直ぐに鉄道を引いたのです。それで、青梅街道と鉄道が交わる荻窪に駅ができたのです。多摩、田無、高井戸又近隣の村で生産される物を東京に輸送する貸物の駅として開業したのです。それで、貸車の為の引き込み線があったり、日本通運や豊多摩通運ができたのです。それでは青梅街道がなぜにできたのかというと、徳川家康が大阪城を攻め落とし、江戸に幕府を開き、大阪城を凌駕する城を作る為、漆喰の主要材料である大量の白土(焼き石灰)を成木村(現在の青梅市)の石灰でまかなう為に青梅街道を作ったのです。歴史には必然もあれば、偶然もあるかもしれませんが、やはり何か理由があるのだと思います。
 また現在の、日大ニ高のテニスコートの東にある都営アパートの所は、戦前は野方警察署付近から繋がる陸軍通信隊のハラッパでした。有線通信の為の電線を引っ張る訓練をしていたようです。なぜに、そんなに広いハラッパがあったかというと、野犬を放しておく場所だったからです。江戸時代、五代将軍綱吉のときに生類哀れみの令が出され、犬などを殺すことができなかった為、野犬が増え危ないので、其の野犬を囲って置く為の場所だったのです。当初は高円寺までだったのが次第に拡張されて天沼まで拡がって来ました。
 犬を放していても問題が無い原野だったのかもしれませんね。野方警察署の町名は、今は中野四丁目ですが、以前は囲町という町名でした。それは、犬を放し飼いにする、犬を囲っている場所の入口だったからです。今では中野体育館横にある囲町公園にしか名前は残っていません。また、中野区役所の脇に鎮魂の為の犬の像があります。
 それ以後は、鷹狩りの場所になり、徳川将軍がよく来れたようです。それで、アメリカンエクスプレスの南にある旧中田村右衛門の屋敷跡があるのです。明治天皇荻窪御小休所とありますが、将軍が来ていたので、明治天皇も休憩に使われたのです。立派な門が残っていますが、将軍が、百姓の納屋で休む事はできないということで、特別に百姓であるが将軍の為に、本来は許されない門を作らせ、門構えの家を許したのです。鷹場に将軍が来るときには、道路、橋等の修復も行わされました。また、鷹の獲物であるウサギや狸などの動物も捕ってはいけないし、林を無くして畠を作ったり、家屋敷の新築なども制限されていました。この様な為に天沼村の人々も裕幅な生活はできませんでした。
 以上、新修杉並区史を参考にさせていただきました。ご指摘、ご指導ございましたら、天沼熊野神社までご連絡頂ければ幸です。

平成18年6月

 天沼今昔物語 第四話
 天沼周辺にお住まいであった著名人の人々を今回は紹介いたします。
 まずは、皇居宮殿の壁画「朝陽」、法隆寺の壁画の二度に亘る復元模写、舞妓さん達などを描かれた橋本明治画伯。当社のすぐ西にお住まいでありました。現在でも自宅兼アトリエが残っています。私が研修で出雲大社に出かけたとき、待合所にて大きな龍の絵を見つけました。はてと思い、お聞きしましたところ、やはり画伯の絵でした。出雲神話のヤマタノオロチからヒントを得た「龍」だそうです。落ちないように、しっかりと付けられている為、取りはずす事ができません。その為、ここでしか見ることができません。出雲大社にお参りに行かれたら、是非この絵もごらん下さい。また、熊野神社には小出あき子さんが描かれた、「秋の光」(境内の紅葉の景色)がありますが、小出さんが境内で描いているとき、後ろに来たおじさんが「そこの色はおかしいな」と注文を付けたそうです。「うるさいわね」と思ったら「橋本明治さんだった」という逸話の絵であります。
 つぎに、独自の私小説の道を切り開いた、上林暁文士の住居は、神社の前の道を100mほど東に進んだ所で、昭和の雰囲気を残した板塀で囲まれています。二度も脳出血で倒れましたが、創作意欲は衰えず、倒れた後に、読売文学賞を受けたり、第一回川端康成賞も受けられています。左手でのミミズがはったような文字で書いたり、妹さんに口述筆記してもらったり、亡くなるまで創作活動を続けました。妹さんは健在で、玄関をくぐると沢山の蔵書が垣間見えます。私は「本が沢山あるな」と思っていましたが、最近その理由が判りました。この妹さんが『兄の左手』という壮絶な文筆活動の記録を出版されています。
 フランス文学者の河盛好蔵さんも神社の南150mほどの所にお住まいでした。87歳のときに脳梗塞で倒れた後、89歳で『私の随想集』全五巻を刊行され、97歳で亡くなられました。阿佐ヶ谷会の最後のお一人でした。私の随想集は、パリのうきうきするような華やぎや、日常のことを判り易い文章で書かれています。
 全国的に一番有名な人、太宰治。日大二高通りを四面道に向かいまして、右手にセブンイレブン、左手にガソリンスタンドがある細い交差点を左に曲がり、床屋さんの斜め前のお宅がお住いでした。古い家ですが、今でも洒落た家だなと忠います。
 阿佐谷文土会の中心人物でした、井伏鱒二さん。清水にお住いでした。杉並区立郷土博物館に、荻窪の昔の姿を留めた、住居の模型が展示されています。「荻窪風土記」で、荻窪を全国的に知らしめて頂きました。
 最後に、版画界のゴッホこと神方志功さんについて、上荻にお住いだったそうです。青森に研修に行ったときに、棟方志功記念館があり見学しました。すごい人だなと感心していましたら、荻窪白山神社の今の宮司さんが、「家の近くに住んでいて、木切れをいっぱい持ってきたんだ。全部燃しちやった。今思えば勿体無かったな。」と聞きました
  以上の人々とは私はお会いした事がなく、残ったお住いを見るだけですが、そこで、苦悩しながら必死に絵を描いたり、文章を練っていたかと思うと、感慨深いものがあります。しかし、人の命には限りがあることをつくづく思う次第でもあります。生かされていることに感謝して、日々明るく、前向きに生きていくとが太切であることを感じる次第であり、此れが神道の心ではと考えます。他にもすばらしい人々がいらっしゃると思いますが、お教え頂ければ幸いです。

 平成19年7月

 天沼今昔物語 第五話

杉並区の杉並の由来について

 杉並の名称の起源は、古いものではなくわりと新しいものです。徳川時代初期に、旗本の岡部氏(千五百石)が、成宗村、田端村の領主になったとき、阿佐谷村(赤坂日枝神社の社領地、天沼村も同様です。)との領地境の目印として、青梅街道ぞいに植えた杉の並木からきています。阿佐ヶ谷の地名の方が古いのですが、青梅街道を通る人が増えるにつれ、また、暑い夏の日には涼んで休憩したり、雨宿りしたりして「青梅街道の杉並木」の名称から杉並の地名(字名)が生れたのではないでしょうか.今の区役所のあたりです。
 江戸時代初めの阿佐谷村の字名を見ると、向、小山、原、本村しかなく杉並はありません。又、近隣にもありません。ですから、間違いなく、江戸時代の初期に岡部氏が植えた杉の並木が杉並の縁起と考えます.ですが、この近隣では一番古い地名の阿佐谷ではなく、どうしてこの新しい地名が、今、この近隣を代表する名称に格上げされたかと言うと、明治二十二年の町村制施行で近隣の村々が合併されることとなり、天沼村、高円寺村、馬橋村、阿佐谷村、田端村、成宗村、下荻窪村の7村が合併し、その村名は阿佐谷村と提案されたのですが、下荻窪村は上荻窪村の方に合併したほうがよいとされ、次に村名は、字杉並の地名が今は著名なので名称を杉並村としたいと再提案され了承されたのです。初代の村長は玉野惣七さんで、村役場は世尊院に設置されました。
 大日本帝国憲法の発布(明治22年)に合わせて、地方制度の再編も実施され、翌年には、第一回衆議院総選挙も行われています。藩閥政治から立憲体制へ転換する最中、明治22年(1889年)杉並村は誕生しました。これにより、現在、杉並木はありませんが、杉並の名前が継承され今の杉並区の名称に至っています。


参考・・杉並区で一番古い地名は、阿佐谷なのです。応永二十七年(1420年)の記録に残っています。紀伊半島の熊野那智大社がお札を配っていた記録に「米良文書」というのがあります。そこに「江戸氏の十八流」として、お札を配る為に家の名が記載されていて、阿佐谷殿(杉並区阿佐谷)、丸子殿(大田区、川崎市)、中野殿(中野区)、飯倉殿(港区麻布)、牛島殿(墨田区向島等)等々十八軒の記録か残っています。これ等の地名は600年前からある地名で関東では古いものとなります。ちなみに、紀伊半島の那智熊野の熊野様のお札を全国に配って周っていた人たちのことを、御師(おし:御祈師の略)といい、伊勢の神宮の天照大御神様のお札を配って周っていた人たちのことを、御師(おんし:御祈祷師の略)といいます。

 私見の部分も多々ありますので、ご指導、ご指摘頂ければ幸いです.

 平成20年7月

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 祈りのこころ
祈りの心-1
 日本人はよく祈る民族だと思います。神社で、お寺で、教会で、クリスマスに、正月に、道路の片隅にあるお地蔵さんにも、これはすばらしいことだと思います。祈りは感謝の気持ちを育みます。感謝は謙虚さを導きます。謙虚さは誠実な姿を生み出します。
 誠実な姿とは、気持ちと動きが伴ったものです。気持ちだけでは駄目です。動きだけでも駄目です。気持ちと動きが伴って始めて誠実な姿を見ることができます。我々が求めるところは、誠実に尽きると思います。祈ることにより誠実な姿に導いてくれます。
 西行法師が伊勢の神宮で手を合わせ祈ったときに、「何事のおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と歌われました。お坊さんも神様の前で祈る。これが日本人の宗教観ではないでしょうか。
 日本人の祈りは、祖先を尊崇する祈り、自然を畏怖して祈ることから自然に身に付けた心です。
農耕を営む中で、生きていく中で、祈る。祈る。常に祈りながら生活してきた民族であろうと思います。全てのことに祈ってきた。これが、日本を物造り大国に導いたのです。一つ一つを、丁寧に祈りを込めることで職人技になるのです。それで世界一精巧なものが造られるわけです。ワールドカップで使われたホイッスル、オリンピツクで使われた砲丸投げの砲丸、いずれも日本人が造ったものです。
 宗教を聞かれてもこたえられないと最近の日本人は言いますけれど、それが日本人の宗教です。一神教の西洋とは異なるだけです。どちらが良い、悪いということではありません。私たちの宗教なのです。
 曽我ひとみさんが帰国されたとき、「皆さんに、こんにちは。二十四年ぶりに故郷へ帰ってきました。とってもうれしいです。心配をたくさんかけて本当にすいません。今、私は夢を見ているようです。人々のこころ、山、川、谷、みんな温かく美しく見えます。空も土地も木も私にささやく。『お帰りなさい。がんばってきたね。』だから私も嬉しそうに『帰ってきました。ありがとう』と元気に話します。皆さん、本当にありがとうございました。」と話されました。二十四年もの間、日本に居なかったのに、日本人のこころを失っていなかった。驚愕にあたいすることだと思います。きっと、拉致された北朝鮮でも祈りつづけていたのでしょう。祈りとふるさとが日本人のこころを呼び戻したのでしよう。
 私たちも、祈りと、ふるさと、そして、今、お住まいの新しいふるさとを大切にしましょう。それが日本人のこころを育む第一歩となります。

平成18年12月
祈りの心-2

 皆様に良く聞かれる事があります。「毎日のお勤め大変でしょ。」と、実は困ってしまうのです。「一日と十五日を除いては、たいした事はしていないのですから。」と何年も心の中で思っていたのですが、最近は「境内の清掃がお勤めかな」と思えるようになって来ました。
 常緑樹は葉っぱが落ちてこないと思っている人がいらつしゃいますが、ところがどっこい、春と秋の年二回も、しっかりと落ちて来ます。”椎”や”樫”の木の新しい葉は、古い葉っぱを押し出すように落として出てきます。そして、緑輝く若々しい葉っぱを見せてくれます。
 また、今年のどんぐりは、落ち始めが早く、小粒でした。地球の温暖化を教えてくれているのか、たんに、夏が暑かったからでしょうか。ソロの木は、毛虫のような花(?)を落とし始めて、春の到来を教えてくれます。
 桜の花はとっても椅麗で、皆さん大好きでしょうが、花びらと同じぐらいにたくさんの葉が落ちるので困っている人もいらっしゃいます。でも、落ち葉が落ちて、一、二ヶ月もすると小さなつぼみが出てくるのです。寒い冬にじっと耐えて、春の花咲く準備を始めているのです。愛おしくなって来ます。
 一年を通じて十年、二十年と、木々と一緒に呼吸をしながら、庭掃除をさせていただくことで、四季のめぐりを感じるようになりました。その頃から、「人は自然の一部で、自然の中で生かされている。」という事を実感し始めました。感謝、感謝、生かされていることに感謝です。
 これは、今をありのままに受け入れ、一生懸命生きていく事が大事だと教えてくれているのだと思います、今しかないと感謝して、精一杯生きて行く事が大事なことだと思います。

これを感じさせてくれた庭掃きが、お勤めではないでしょうか、この気持ちを、あなたさまに少しでもお伝えすることができればと思う今日この頃です。
 新年に花もない、葉っぱもない桜の木を見てください。小さなつぼみの赤ちゃんが見つかるかも知れません。そして、自然の息吹を感じてください。清清しいお正月を迎えることができますよ。
(ありがたいと思う気持ちが、感謝の気持ちを育みます、感謝する気持ちが、謙虚さを導きます、謙虚さが、人にとって一番人事な、誠実な姿を生みだしてくれます。)


平成19年12月